困惑
「先生、他にどんな保険入ってるんですか。ショウハイさせてください。」
ショウハイ?と思って聞いてみると、
「あ、他の保険の証券を見させてもらうことです。」
どうも証券拝見の略で「証拝」らしい。しかし、他社の保険証券なんて見てどうするのかと思っていると、
「今証券見せてもらえると、ビール1本当たるんですよ。先生飲みますよね。」
そんな活動も保険会社はしているらしい。ビールは魅力的だと思いつつも、保険証券の在処の方が怪しかった。捨ててはないだろうが、目ぼしい本棚を探す自分を想像して少し面倒くなった。確か3件ぐらい入っていたことを思い出して、ビール3本タダでもらえるならと「まぁ飲みますね。」と答えた。
「先生次いつ空いてます?土曜とかどうですか。契約もありますし。」
前回は決めただけで、本契約が残っていた。土曜は、大体仕事で学校に行っている。本来は、休日にまで片道40分かけて学校に行く必要はないのだが、仕事の要領が悪いのか休日も行かないと終わらない。大体午前中だけすることが多いため、午後からにしてもらうことにした。
「じゃ、先生、証券のコピーも忘れないでくださいね。」
保険員は例外なく次のアポをその場で成立させる。半ば強引な感じはするが、それも営業力のうちなのかもしれない。
土曜日。仕事を切り上げ、ショッピングモールに向った。事前のLINEで13時にショッピングモールの駐車場で待ち合わせることになっていた。証券のコピーを渡して契約書にサインするだけなので、その後パチンコで何の台を打とうか考えながら車を走らせた。着いてLINEをしようと開くと、長谷川さんが窓を叩いてきた。
「先生!こんにちは。乗っていいですか?」
え?乗るの?と思ったが、こんなところを万が一見られるといけないので、「どうぞ」と促した。一緒に喫茶店に行くのか、いや喫茶店なら直接集合すればいいだけだし、どうするつもりなのだろう。
「暑ーい。外めっちゃ暑いですね。先生冷たいものでも飲みに行きましょ。M市行きません?いい天気だし。」
「M市?!」
M市は、ショッピングモールのあるS市から車で約1時間はかかる港町だ。毎年の祭りや花火では県中から人が集まるほどの町で、近年有名なジェラート屋があると話題だ。だからといってM市まで。ま、でも知り合いに会う確率は低くなる。小心者の自分にとってはそれの方が優先度が高い。
「いいですけど。」
「やった。」
残念ながらパチンコの思惑は崩れ去った。
走りながらふと服装を観察する。白のノースリーブで肩のところがヒラヒラしている。女性はいくつになってもそういうのが好きらしい。視線に気づいたのか、
「ね、先生これ似合う?」
当然答えは1つに決まっている。
「似合ってますよ。白が夏ぽくていいですね。」
一言プラスすることも忘れない。
「ほんと?!安かったけど買ってよかった。」
「へ〜いくらしたんですか。」
大体5000円を予想しておく。安ければ「いい買い物でしたね」、高ければ「安くないじゃないですか」が使える。
「1万5000円ぐらいかな。」
「高っっっ!」
予想以上すぎて、普通に驚いてしまった。基本的にTシャツに5000円以上は払わない自分にとって、薄っぺらいノースリーブ1枚に1万5000円は高すぎる。そんなことないよと謙遜する長谷川さんは、マウントを取っている風でもない。本当に彼女にとったら安い買い物だったのだろう。
M市までの道中は、お互いの学生時代の話、友達の話などで盛り上がった。前のパスタ屋でもそうだったが、スラスラと質問が浮かび上がってくる。変な間もない。心地よく会話をすることができた。
M市に入ると、隠れ家的な森の中にあるようなカフェに入った。まさかとは思うが、知り合いがいないかを確認してから角の席に座った。そこで証券を見せ、契約書にサインをした。分厚いファイルをもらうと、心の中でため息をついた。なんかまた一つよく分からない物が増えた。
帰りも同じようにテンポよく会話ができた。ショッピングモールに帰ってきた頃には17時近かった。僕は当たり前のように長谷川さんの車の横に止めた。しかし、待っていた言葉は予想しないものだった。
「え、先生もう帰っちゃうんですか。」
え?帰っちゃいますよ。え?今の言い方って、脈があるときの言い方じゃなかった?「残念」、「未練」、「寂しさ」、なんなら「もっと一緒にいたい。」と受け取りますが、合ってますか。ほぼ確実なものを感じた。しかし、これ以上は自分も予想していない展開だったため、「あ、はい。」と当然のように答えることにした。
「えー、じゃまた今度行きましょ。」
なんなんだ。自分のどこに好きにさせるようなところがあったのだろうか。確かに会話をしていても楽だし、気兼ねなく話せたけれども、好意を抱くまでいきますか。でも、やはり大人の女性なのか、去り際は潔かった。
帰宅してから今日のことを振り返った。好意をもっていただくこと自体は喜ばしいことだ。今日の雰囲気から察するに、ほぼ間違いない。だけど、既婚者、子持ち、保護者、10歳上、肩書きだけ見るととてもではないが「ない」。1つだけでも「ない」のに4つもある。僕は困惑した。
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