教師と保護者の恋愛小説「わかっているけど」(17)

小説

一泊

長谷川さんは、すぐに予定を入れる。2ヶ月先まで入れてくる。自分でもそんな先まで予定を入れたことはない。自分としては不確定の未来に予定を入れることに、若干苦手さがあった。もっと大事な用ができたらどうしようとか思ってしまうのだ。the 小心者。だから思い切ったことができない。公務員になるのもうなづける。

しかし、長谷川さんと出会ってから、意外と予定に合わせて他の用事を調整してしまうものだと気づいた。そんなものかと思った。

始めて温泉に行くことになった。なんでもない土日。

「先生、温泉行こっさ。奢るで。ちょっと大きい契約取れたで臨時ボーナス入るんやって。」

「え、そんなんいいんですか。」

「全然いいよ。だからいこー。」

奢ってもらえるならと、県内でも有名なA市にある温泉街に行くことになった。

温泉に着くと、フロアで右側に案内された。一般客室とは違い、右側はグレードの上がる客室だ。赤い絨毯の上を進んでいくと、専用ラウンジがあった。部屋に入ると広々とした部屋に大きなリクライニングシートがあり、室内露天風呂もあった。

見るだけでそれなりにお値段のするところだと分かった。2人ですごいねと言いながら、部屋を見回った。程なくすると、仲居さんがやって来て、部屋と風呂の説明、夕食の時間などを尋ねていった。

どうも夕食は部屋で食べられるらしい。普段食べられない冬の味覚をゆっくりと味わった。いつものよく噛まずにすぐ終わる夕食とは違い、少しずつゆっくりと食していった。

僕が美味しいと言っていると、「私これ食べれんのやって。」と刺身を差し出してきた。

「え。刺身食べられないんですか。」

「うん、生魚あかんの。」

日本海側の田舎に住んでおきながら、刺身が食べられれずに何を食べるのか。もったいない。いつもそういう場合は、肉料理に変えてもらうらしい。ありがたく頂戴した。

飲み物はビールをいただいた。代行を気にせず飲めるなんて最高だ。長谷川さんもとすすめると「ビール飲めんのやって」と言う。

この人は何を食べて生きているのだろうか。代わりに果実酒を頼んだ。それもちょっとしか飲めないらしい。意外。

ただ、僕としては好印象だった。前の嫁がお酒が好きで、飲みすぎる傾向にあったからだ。酔うと面倒くさく、お酒の失敗も多々見てきた。それ以来、お酒好きで外で飲む女はあまり好きではない。ワンチャンを求める程度ならそれでいいが、付き合うなら理性を保てる女性であって欲しい。

そんなことを思いながら食事の時間は過ぎていった。食事を終えると風呂に行くことになった。少し行ったところにその棟専用のお風呂があった。入って見ると、こじんまりはしているが、総檜で作られた香りの良い風呂だった。他の客もほとんどおらず、ゆっくりと羽を伸ばすことができた。

温泉に来たからには、いいお風呂と美味しい料理が必至だ。お風呂にこだわりはそこまである方ではないが、料理は外せない。料理に関しては悲しいかな、前妻のおかげでそれなりに舌には自信がある。前妻の作った手料理でと言うわけではない。よく食べに出ていたため、ワンランク上の美味しいをそれなりに経験していた。

そのため、100円寿司チェーン店には足が向かない。何年も行ってないため改良されたかもしれないが、数年前に旅行で行った太平洋側の100円寿司チェーン店は一皿食べて出てきた。夕食に頼んだ刺身もぼてっとしていて吐き出した。日本海と太平洋の魚の差を肌で実感した出来事だった。

お風呂から上がり、部屋に戻ると長谷川さんがいそいそと忙しない。どうしたのかと尋ねると、なんでも「ものまね王座決定戦」が始まるのだという。

長谷川さんにとって、この世で1番好きなテレビ番組が「ものまね王座決定戦」なのだ。もっと言うとフジテレビのものまね王座決定戦が好きらしい。歌手の右下に漫画風に歌手の似顔絵が出るやつだ。家でもものまねが入ると分かったら、早く仕事を切り上げ、家事を全て済ませ定刻までにテレビの前にスタンバイするほどだ。初めての人種だった。ドラマならわかるが、特番とは。しかし、そのせいか、長谷川さん自身もモノマネが上手い。芸能人ではなく、身近な人のモノマネだ。必ず、仕事の話をするときは社員のモノマネをしながら話すため、おそらく僕が会社に行ったら初対面の人の名前が言えると思う。

モノマネを一緒に見た後は、大人の時間だ。誰にも邪魔されず、休憩時間も気にせず、非日常さがさらに雰囲気を盛り上げた。

翌朝、旅館の朝食はなぜいつもこんなに食べてしまうのだろうか。つい、色んなものに手が伸びて食べすぎてしまう。そして、大きい用をたす。旅館ルーティンだ。

長谷川さんは、チェックインぎりぎりまでいたい人らしい。僕とだからか、温泉がそうさせるのかは分からないが、朝はゆっくりするタイプらしい。まぁお金を払っているのだから時間いっぱい楽しみたいということだろう。

チェックイン時、旅館のフロントは品のいい紳士だった。

「合計で10万円になります。」

思わず長谷川さんの顔を見てしまった。一泊五万!そんなところに泊まりに来てたのかと改めて驚いた。

「え、いいんですか。」

「いいのいいの。」

「なんか、すみません。」

額を聞いて感謝より申し訳なさが勝っていった。そして、保険会社って儲かるんだなと羨ましくもなった。大学まで出て毎日あくせく働いて年収400万ほどの男と、ノルマはあるが、日中ネイルやカットに行きながら仕事をしている年収1000万円弱の女。不公平だ。この頃からだろうか、公務員しか知らなかった僕が他の業種にも興味を持ち始めたのは。

そんなことも話しながら、長谷川さんは仕事と嘘をついて娘を預けている妹夫婦の元へと帰っていった。

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